新宿間税会

税務署と古文書 II

前号で紹介した「税務署と古文書」について続編をと云う声があり、ここに拙文を重ねることとなった。

ここでいう「古文書」なるものは調査関係資料が主であり秘文書であるため、その全貌をご披露出来ないがとり残し分を署の一般蔵書などを参考としながらお伝えすることとする。

明治以降の変遷

まずこの地域の様子について明治以降の変遷を辿ってみよう。

幕末の頃、旧江戸の西郊として田畑のなかに幕府の士邸が多く見受けられ、当時は農地60%、武家地30%、寺社領5%の割合であった。

ご一新後幕府士邸は撤去されて桑、茶畑とされたが百人町には猶士族の居宅が多く残っていたらしい。

又尾張徳川家の屋敷が薩摩軍勢の駐留地となり、これが後年陸軍用地に伸展していったものである。

この辺りかなり広い地域が軍の演習地として使われ、御滝橋が格好の争奪目標となり兵隊が附近の畔道を散開して進むのを、東中野方面の台地から射撃するさまなどがかなり後まで見られたという。

明治の中頃においても未だ角筈(約73町)、西大久保(72町)、下落合(63町)、柏木(61町)などかなりの農地があり、まさに今昔の感がある。

なお、ご存知のとおり武蔵野の地層は関東ローム層で田に適せず、畑主体でその比率は大体1:6位で市内への蔬菜の供給地であった。

新宿駅と交通の発展

ところで、今や都内交通の中心となっている「新宿」であるが明治時代の交通はどうだったのだろうか。

明治18年山手線の新宿駅は開設されたが、当時は甲州・奥州方面からの木炭などの集積地に過ぎず、同22年甲武線(中央線)が併設され始めて駅らしくなったもので現在の日本一のマンモス駅からは想像も出来ない。

さて大正も中期に進むと内藤新宿が市街化しこれに伴い淀橋、戸塚地区の宅地化も進んだ。

そして関東大震災を契機として西郊への人口移動は顕著となって、本地域は商工業地と住宅地とに大きく変貌し農村の面影を駆逐したのである。

ちなみに、大正12年における旧淀橋税務署(豊多摩郡)管内の農家戸数は2,403戸であった。現在は10戸で現淀橋署には農業所得者はない。

商工業の発祥

次いで商工業発祥時代である大正中~後期の様子をみると、商業面で一般的でやはり、衣(反物商)、食(米穀商)、住(材木商)がその大どころを占めていたようである。

このことは現在の協力会と同じような立場にあった「所得調査員」の人選などから窺えるところである。

記録によればこの「所得調査員」の人品、性行などまで残されているが、係わりのある虞れがあるので詳細は省略させて戴く。

工業面をみると地域性から大工場はなかったが、妙正寺川・神田上水沿いに染物・晒業が、淀橋地区には金属機械、化学製造業などが発達した。

そのなかでの最大手は六桜社(写真工業)で大正10年資本金200万円で設立された。現存するオリエンタル写真工業は同8年に創設されている。

又現在も製菓業の大手である明治製菓は大正6年に百人町で菓子製造を始め後に川崎に移っている。

なお、大正末期の旧淀橋署(豊多摩郡)管内の会社数は約350社で、現在の5署合計稼働法人は45,600社となっており、うち現淀橋署管内は10,400社であるから約100倍となっているのではあるまいか。

又大法人(資本金50万円以上)は数社数えられたが、西武不動産の前身である箱根土地のほかは改組されたか現在見当らない。

昭和初期の発展

時はうつり昭和初期となるや企業家は新宿の将来性に目をつけ、私鉄の乗入れ、デパート、興行業、歓楽街などの進出が多く見られ帝都屈指の盛り場として発展の一途を辿ることとなるわけである。

往時の盛況を計り知るものとして、当時の東京市公報に「不景気の嘆声も此処ばかりは他郷の空にも等しく...云々」と報じられており50年前からの盛況さを窺い知ることが出来る。

ただ、その中心は今とは少し異なり2~3丁目辺りが中心だったようである。

税金関係の記録

次にどうしても税金関係に触れないわけには行かないだろう。

昭和初期迄は所得税の納税者数も少く、極めて少人数の税務職員で処理されていた様が記録されている。又当時多額納税者が公表されていたかどうか判らないが、記録では次の二者が残っている。

角筈の(株)武蔵野館と同、高野芳之助である。

落合地区について

淀橋を話す場合この地域の特殊性として、(新宿駅周辺の商業ビジネス地区)と(落合地区の住宅地)の二面性をもっていることをあげなければならない。

新宿駅周辺については既に述べているので、ここでは落合地区について少し述べてみよう。

大正末から昭和にかけ当時翠が丘と云われていた丘陵地帯を箱根土地(株)が開発し、目白文化村と銘打って分譲したもので当初坪50~70円位であったという。

現在もかなりの著名人が住んで居ることは周知のところである。

淀橋に住んでいた著名人

最後に大正から昭和初期にかけどのような著名人が淀橋に住んでいたか記録されている名士録のなかから一部を紹介しよう。

(政治家等)
西大久保~阿部信行、平沼騏一郎
角筈~岡田啓介
下落合~有田八郎

(文化人)
大久保~島崎藤村、小泉八雲

などである。

とりとめのない文章に時間を割いて戴ければ幸いです。

新宿の史蹟

1. 成子天神の力石(西新宿8-14-10)

成子天神の力石
成子天神拝殿と58貫余の力石

江戸末期から昭和の初めまで各地の祭礼で力較べが行われた。それに使った大きな石が力石。拝殿の銀杏の下に7個ある。

2. 熊野神社(西新宿2-11-2)

熊野神社
熊野神社

新宿中央公園の北西にある。本殿東側の手洗鉢は江戸時代の狂歌師大田南畝が寄進したもの。また十二社碑は十二社が風光明媚であると漢文で説明している。

3. 水稲荷神社(西早稲田3-5)

水稲荷神社・山吹の里の碑・面影橋付近を走る都電
上は水稲荷神社/中は山吹の里の碑/左は面影橋付近を走る都電

附近の高田馬場跡は江戸時代に旗本が馬術の練習や、走る馬上から的を射る流鏑馬(やぶさめ)で武術を錬った処。また、この辺り一帯は太田道灌の故事にある山吹の里で、面影橋の近くにはその碑が立っている。

新宿間税会に入会しませんか?

消費税に関する知識習得、異業種との交流、税制への提言など、様々な活動に参加できます。

入会のご案内