ブックタイトルtax-vol.9-1986-a

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趣糠のコーナー~八丈小島渡島記. , . , ............... ,, . . ,, . ,, . ,, ................ ,, . . . ヽ. ..,, . .私が「島へ行く」と言うと、必ず「釣りですか」ときかれる。釣りもできない絶壁の孤島、御蔵島や青ケ島に行くと、現地で「仕事ですか、調査ですか」ときかれる。いずれも「たtク)旅行です」と答えるとけげんな顔をされる。つい最近、当社の森会長がずばり良い言葉を教えて下さった。「離島趣味」である。しかし一般の方にはこれではわからない。そこで私が一人で島へ行って何を楽しんで来るのか、具体的にリボートを書いてみた。題すれば「八丈小島渡島記」である。一八丈小島~如ぶXSXl!Xl八丈小島は、伊豆七島最南端の島八丈島の沖合にある。山頂だけが海面に突き出した古い火山島で、断崖の周囲はわずか9キロ。島民約250 人は昭和44 年、全員八丈島に引き揚げた。生活苦からと言わ,,,.れているが、実は東京ル~T '都の離島対策資金にも限界があるので移住を奨励された、と見た方がよい。無人化した島であるため、渡島には八丈島で漁船をチャークーしなければならない。1日3万円也はいいとして、渡島日前後に1泊ずつ、更に風待ちのための予備としてもうl泊、合計3泊が八丈島で必要となる。一匹無人の島'11XSX岱匹立私の第1の関心事は、16 年の歳月を経た無人の集落が今どうなっているか、ということであった。うっそうとした茂みの中のゴーストクウソを想像していたのだが…… 。先ず、草木が覆い被るどころか、道がきれいに残っているのに驚いた。そして住居は跡形もなく、石垣とコソクリートの貯水漕が残っているだけなのである。正確には、民家1軒と都の教員住宅が1軒、それに小・中学校の校舎だけが形をとどめていた。憐れをさそったのは校舎であった。黒板の端の方に週間予定の白墨の跡が鮮明に残っており、それが「土曜日卒業式」で終っている。10 人とは居なかった生徒の、これが最後の登株式会社京王百貨店経理部長中村充校日であったのだろう。そして朽ちて抜けはじめた屋根の下で小さな簡易ヒ゜アノが1台、今なお音を失わずに主の帰りを待っているようであった。一わ山羊の島名ふ立!CllXSXl人間が去ったあと、この島は山羊の島となった。島民が残して行った家畜の山羊が野生化し繁殖して今や20 0 0頭。集落跡に草木の茂りが無いわけである。山羊が喰んで樹木まで立枯らせて行く。校舎の床も山羊の糞だらけで、白骨がころがり、死体がうずくまっていた。山羊ファミリーは15 匹ぐらいが単位らしい。それが人間を見ると獣I道を一目散に逃げて行く。私は自衛のために根棒まで用意したのだトが、これはあてはずれ。勺]島出身の船頭さんに笑ロ・応iわれた。さて、わからないのはこの山羊の所有権である。法律に詳しい方にゆっくりお伺いしてみたいものである。―0 為朝の島叩如立ぷ勾心伊豆諸島は為朝は島渡り伝説の島々である。どの島にも為朝ゆかりの遺跡と祠・社がある。為朝の最後については「吾妻鏡」などでは大島で自刃、「椿説弓張月」では琉球国に逃、れることになっている。しかし八丈島では、八丈小島こそ為朝終焉の地であると言い伝えられてきた。小さな八丈小島でも集落は二つあり、南部の宇津木村の奥の山腹に為朝神社がある。大人の背丈程の社と、鳥居に相当する二つの岩板だけが残っていた。ご神体と社宝は今八丈島に保管されている。宇津木村からの海の眺望は素晴らしい。ひょうたん型の八丈島が眼の前に迫って来る。足を踏張れば為朝の気分。感ひとしおであった。そして私の伊豆諸島めぐりも、ガま有人であった10 島(伊豆7 島+その属島式根島青ケ島?八丈小島)のすべてを見極めて、今ここに完結したのである。- 12 -..