ブックタイトルtax-vol.5-1984-a

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概要

tax-vol.5-1984-a

歴史コーナー税務署と古文書III間税第1部門統括官小松崎豊前任の高野統括官が稿を起した「税務署と古文書」の院々編を、と編集委員からのたってのご依頼で、やむなく筆をとることになった。戦災を免がれた「古文書」とは大正末期から昭和20 年7月に至る間の調査資料が主となった諸文書であり、後輩の現署署員としては興味の尽きないものであるが、一般にご披露できる部分は少なく、すでに前任者がそのほとんどを紹介しているので、私なりに興味をもった、お伝え可能な部分を紹介し、「税務署と古文書」のまとめにしたい。この「古文書」に現われた期間は、関東大震災、太平洋戦争及び終戦直前という大正、昭和の激動期であり、その節目々々の管内状況がうかがえる記録がある。まず、関東大震災の数年後に書かれた記録の一部を原文に忠実に披露することとする。「大正12年9月1日に東京を中心とし、未曽有の大震災に見舞われ、更に震災後3日に亘り大火災を惹起し、山の手方面の一部を除く東京全市の大部分が烏有に帰し焼失家屋実に40 万、死傷者100 万を超すと称せられ、惨状その極に達し……」との記載に始まり「市民はいづれも、恐怖の念にかられ山の手方面を安住の好適地と目指し、震災後、渋谷、中野、杉並方面に転入する者甚だ多く、昨日の田畑は宅地と化し、道路を開設して交通を便にする等震災後における当署管内の発展は実に著しきものあり???…」と東京市民の動向と管内への影響を述べ、管内人口が大正11 年に335千人だったものが大正14 年には477 千人となった旨記録されている。その後の記録で昭和5年に636 千人、昭和8年に717 千人となってゆく状況を見ると、今日の新都心の揺藍期を垣間見たおもいがする。ついで、昭和13年に物品税、入場税等が制定され、その円滑な実施を期すための施策の記録や昭和19年8月に中野署が新設され管轄が淀橋区1区のみとなり、この時の当署の年間の物品税課税額が約350 万円、遊興飲食税等他の間接税課税額が約240 万円、合計約590 万円であったという記録がある。やはり、当時も管内の間接税では物品税が重要な位囮を占めていたことが判り興味深い。最後に昭和20 年7月31 日付の「戦時災害の課税物件に影響を与えたる事項」という一文があった。「昭和20 年3月10 日下町方面の夜問大空襲を初めとし爾来帝都焼土化を目指す敵機の空襲は日を追って頻繁となり当管内も又相当の災害を蒙るに至れり」という書き出しで管内の被害状況を記述している。昭和20年4月4日に柏木1丁目、角筈l丁目が、同4月13日には管内全域が夜間大空襲を受け、多数の死傷者が出たこと、この災害と疎開等によって人口が激減した状況等を町別に記録し、「即ち、昭和19年5月の166 ,247 人に対し1年後の昭和①年7月に於いては約3分の1に減少せり」と結んでいる。私も当時は北区に住み多感な少年時代であったので、記憶も新たに感慨深く読んだが、あらためて平和な時代の幸を感じた。期せずして、災害に始まり災害に終る話となってしまった。そこで、いまTVドラマで人気の高い「おしん」を連想させる記録と言ってはオーバーであるが、今は無くなった制度である小作料の記録に興味を引かれたので、原文のまま転載して筆を置くこととする。田畑小作料1定方及取立二関スル伯習I. 小作料の定方田l反歩当玄米2俵(8斗)ノモノ最モ多・ン、コハ標準収穫高玄米5俵(2 石)ノ内4割ヲ小作料ト・ンテ納付、ン6割ヲ小作人ノ収穫トスル旧来ノ慣習二基クモノナリ畑1反歩当20 円内外ノモノ多・ン、コレ亦旧来ノ標準卜慣習ヲ踏襲セルモノナリ1. 小作料1取立田物価ニシテ収穫期ヨリ年末マデニ納付スル慣習ナリ畑金納二、ンテ従前ハ年2回納付ノ慣習アリクルモ現今二於テハ田卜同様年1回年末二納付ス- 10 -..