ブックタイトルtax-vol.4-1984-a

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概要

tax-vol.4-1984-a

歴史コーナー税務署と古文書n間税第1部門統括官高野豊前号で紹介した「税務署と古文書」について続編をと云う声があり、ここに拙文を重ねることとなった。ここでいう「古文書」なるものは調査関係資料が主であり秘文書であるため、その全貌をご披露出来ないがとり残し分を署の一般蔵書などを参考としながらお伝えすることとする。まずこの地域の様子について明治以降の変遷を辿ってみよう。幕末の頃、旧江戸の西郊として田畑のなかに幕府の士邸が多く見受けられ、当時は農地60%、武家地30%、寺社領5%の割合であった。ご一新後幕府士邸は撤去されて桑、茶畑とされたが百人町には猶士族の居宅が多く残っていたらしい。又尾張徳川家の屋敷が薩摩軍勢の駐留地となり、これが後年陸軍用地に伸展していったものである。この辺りかなり広い地域が軍の演習地として使われ、御滝橋が格好の争奪目標となり兵隊が附近の畔道を散開して進むのを、東中野方面の台地から射撃するさまなどがかなり後まで見られたという。明治の中頃においても未だ角筈(約73町)、西大久保(72町)、下落合(63町)、柏木(61町)などかなりの農地があり、まさに今昔の感がある。なお、ご存知のとおり武蔵野の地層は関東ローム層で田に適せず、畑主体でその比率は大体1:6位で市内への裁菜の供給地であった。ところで、今や都内交通の中心となっている「新宿」であるが明治時代の交通はどうだったのだろうか。明治18年山手線の新宿駅は開設されたが、当時は甲州:奥州方面からの木炭などの集積地に過ぎず、同22年甲武線(中央線)が併設され始めて駅らしくなったもので現在の日本一のマソモス駅からは想像も出来ない。さて大正も中期に進むと内藤新宿が市街化しこれに伴い淀橋、戸塚地区の宅地化も進んだ。そして関東大震災を契機として西郊への人ロ移動は顕著となって、本地域は商工業地と住宅地とに大きく変貌し農村の面影を駆逐したのである。ちなみに、大正12年における旧淀橋税務署(豊多摩郡)管内の農家戸数は2,403戸であった。現在は10戸で現淀橋署には農業所得者はない。次いで商工業発祥時代である大正中~後期の様子をみると、商業面で一般的でやはり、衣(反物商)、食(米穀商)、住(材木商)がその大どころを占めていたようである。このことは現在の協力会と同じような立場にあった「所得調査員」の人選などから窺えるところである。記録によればこの「所得調査員」の人品、性行などまで残されているが、係わりのある虞れがあるので詳細は省略させて戴く。工業面をみると地域性から大工場はなかったが、妙正寺川・神田上水沿いに染物・晒業が、淀橋地区には金属機械、化学製造業などが発達した。そのなかでの最大手は六桜社(写真工業)で大正10年資本金200万円で設立された。現存するオリエソクル写真工業は同8年に創設されている。又現在も製菓業の大手である明治製菓は大正6年に百人町で菓子製造を始め後に川崎に移っている。なお、大正末期の旧淀橋署(豊多賑郡)管内の会社数は約350社で、現在の5署合計が働法人は45,600社となっており、うち現淀橋署管内は10,400社であるから約100倍となっているのではあるまいか。又大法人(資本金50万円以上)は数社数えられたが、西武不動産の前身である箱根土地のほかは改組されたか現在見当らない。時はうつり昭和初期となるや企業家は新宿の将来性に目をつけ、私鉄の乗入れ、デパー- 10 -..