ブックタイトルtax-vol.10-1986-a

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概要

tax-vol.10-1986-a

インタビュー南多摩郡新宿村千野時計店の時計屋さん千野通明今回は、当協力会の副会長をはじめ、青色申告会、法人会、時計組合等の役員を永年に亘って務めておられる、千野時計店の千野通明氏をお訪ねいたしま、した。父→長男→三男の私で三代目となりました。0 東京では「時計の千野」という店名を、古くから、いたる所で耳にしますが。A 池袋、渋谷などで「千野」とつく店は、父が千野の本家ということもあり、おじであったり、家で修業して独立した者達です。私は、千野時計店の三代目で、父が町の時計屋で修業し、明治38年に現在の場所が国道沿いで、当時は中野方面には同業者がなく、そのうえ、「おばけ」が出るという理由で家賃がただだったため、この家を借り独立して時計屋を始めたそうですよ/建物は2階建で地下が倉庫でした。当時の店の写真がありますが、柱時計や懐中時計のはかに蓄音機や家具、建具も商っていたようです。その後、戦災にあい、戦後時計屋らしい店になり時計を中心に商いはじめました。0 まるで淀橋の歴史のようですネ、A そうでしょう、この辺は農家がはとんどで、南多靡郡新宿村字柏木77番地が現在の店の住所なんです。当時は字ですよ。私は小学校は、となりの淀3を出ました。息子も孫も同じです。以前は、この辺もトンボが採れましてネ、現在のように駅の廻りが繁華でなく、地名に坂とつく所が栄えましてネ、この成子坂も露店が出て、なかなか楽しかったものです。その頃、そう昭和の初めですネ、この辺も繁盛してました。売る時計が配給の時代で、輸入時計がなかなか手に入らなかった時代でしたが、私は、戦地にスイス製の時計を持って行きました。戦後は、ヤミ時計とか、いろいろやりました。0 お父様が始められて、三代目ということがよくわかりませんが、A 昔は、総領しか跡を継げない時代がありましたので、私は、長男の挫子に入って、-10-四代目は息子になりますが、息子は時計よりメガネに力を入れているようです。時計がオモチャのようになってしまったし、近くに安売店が沢山出来て、安売店と同じ価格で売るともうかりません。その点メガネは一度御来店のお客様は、御得意様になっていただけます。Q 時計屋を継いだのは、特に時計が好きだったからですか。A いやべつに、ただ、17オの頃から錦糸町の時計屋に修業に行っている間に時計に親しみがわき、戦争から婦ってきたら、時計店になっていたからです。今でも、この業界には、地方の時計屋の息子を御預りして学校に行かせたり、修業させる習慣が残っております。私の店でも今、一人預っています。相手も大変だけどそうすると、自然に跡を継ぐようになってしまう感じです。Q 昔の話を楽しくお聞かせいただきました。ところで、お話を伺っていると、お年がわからなくなりました。何か趣味はお持ちですか。A 私は、大正10年4月24日生れです。趣味は、ゴルフですね。(トロフィーが一ばしヽ)Q ヮーびっくり、若いですネとは、失礼な言い方になりそう。協力会や協力会の若い人にこれから望むことは。A よその会より若い方が多くて大変いいと思いますが、会費が少なくて何も出来ないところがありますね。お忙しい方に、やっと時間をいただき、お会いしてまいりました。高層ビルをながめながら、昔の成子坂の話を楽しく聞かせていただきました。誌上では、ほんの一部しかお知らせできませんが、会でお会いした時に話を聞かせていただいたらいかがですか。ちょっと、新宿通になるかも./..